ブラジル茶の講義続きです。

前回の話はこちらから

ブラジルお茶講義。マテ茶とブラジル、パラグアイとの関係。

右側はシマノと呼ばれているもので、ブラジル南部の人たちが最初の準備段階で使っている方法です。

粉のようなとても小さいものを使っているのが分かりとても綺麗です。

ローストマテ茶

これはとても複雑な準備の方法なので少し説明が必要です。

この葉はとても味がこいので、なかなかこれを作るのは難しいです。

とても大変な長いプロセスがかかります。

一番右のは日本のほうじ茶のようなお茶で、粉末のものではなくマテ茶を焙煎して作ったお茶です。

ローストマテ茶と呼んでいます。

これはティーバッグになっていますけど、ローストマテ茶です。

もし味をみてみたいなっていう方がいましたらあとで来てください。

この地域がマテ茶を栽培しているところです。

下はパラグアイですね。他のところでも栽培地はありますが主にはこの南部の地域ですね。

ブラジルのお茶(カメリア・シネンシス)

これからお茶についておはなししますが、最初にお茶の木が来たのは椿科ですね、お茶は。
※ツバキ科カメリア・シネンシスがお茶の学術名

それをもってきてお金持ちになりたいということでお茶の木を育てることがサンパウロを中心にはじまりました。

 

最初にお茶の木が育てられ始めたのは19世紀になってからですが中国人が木と種をもってきまして、リオデジャネイロに植えました。

それから他の地域でもお茶の木をひろげたいということで、だんだん広まっていきました。

 

その頃はだれも茶の木の面倒をみる人がいなければ、木を育てる環境もできていなかったので植えて様子をみることからはじまりました。

最初に植物園に植えたのは大昔の1824年のことで、Sakamotoさんというかたが植えました。

木は低くなく本当に高い木になってしまいましたが、ポルトガルの人たちに人気がありましたので、お茶の木が育てられるようになってきました。

 

牧師さんですね。その方がこのお茶はブラジルで育てたら良いなっていうことでどんどん広めていったんですけど。

そして中国からお茶を育てるための色々な器具とか必要なものを取り寄せるということで仕事を始めた所、

その牧師さんは残念なことに亡くなってしまいました。

仕事の途中で命が終わってしまいました。

 

幸いなことに牧師さんは亡くなる前、ブラジルでの木の育て方についての説明を本のようなものを書いていましたので、お茶の木の育て方というのはよくわかりました。

中国から来たひとたちもその本を一生懸命に呼んでお茶をそだてていきました。

最初のころはポルトガルがブラジルを植民地化していましたので、その貴族たちが主に個人的に自分の屋敷の庭で育てたりしていましてそれがだんだんに広まっていきました。

1888年にサンパウロ以外でもお茶を作り始めたのですがお茶を作るためには沢山の労働者が必要でありますが、かなりの人が病気のために亡くなったりしてしまいました。

 

いよいよ20世紀になって日本からの移民のひとたちがブラジルにやってきました。

政府は人々を労働のために受け入れることを決めました。

 

最初は珈琲とかお米の栽培にとりくんでいましたが、だんだんお茶のほうにも入っていきます。

ほとんどの日系移民ほごんどのひとたちは、サンパウロのバルトリビアという小さな地域に住んでいました。

 

伝統的なブラジルのお茶の文化はこの地域から始まりました。

オカモトトラゾウさんという方が日本でお茶を育てた経験のあった方でその方がお茶を広めることになりました。

 

最初のうちは中国から来た種やお茶の木を使ってお茶を育てたのですが、トラゾウさんはもっと大量にお茶を生産したいということで日本からお茶を育てるための器具とか種を仕入れるという事で一度日本に買えることにしました。

航海には約3ヶ月かかります。その途中でセイロン(スリランカ)によりまして、そこで種を彼は手に入れることができました。

 

セイロン国(スリランカ)に入国をすることができなかったんですけど、種をやっとのことでてに入れてバッグに深くしまい込んでいよいよブラジルに帰りました。

 

三ヶ月かかる間に種が発芽して少し育ってしまったんですね。そうしてブラジルついた時には警察官に非常にとがめられまして、今度はブラジルに入国をすることができなくなりました。

 

その後インドからお茶の木をブラジルに仕入れまして、非常に気候がよくにていますのでお茶の木がよく育ったんですね。

それでもあちこちでお茶の木が育つようになりました。

第三話に続きます。

第三話 ブラジル茶1950年〜現在の歴史と背景。現状の活動は衰退へ。

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