日本の茶が歴史的にどのように辿って来たのかを明治から平成、
そして令和にかけての歴史的な背景も元にざっくりと説明します。
明治時代の日本茶輸出の関係
明治時代に茶はずいぶん輸出されている。
明治の時代は70%以上、最高では、90%くらい輸出されていました。
そんな多くしてきた輸出を強化のために品種というのは作っていた。
在来種では収量が安定しないので、
品種を増やして収量の多いものを選定する、してきたというのが当初の目的です。
昭和前半 和紅茶の価値がなくなる
その後、昭和30年代前半にはですね。戦争が終わった後ですね。
輸出っていうのは、もう一回、見返り物資としてですね。
アメリカから融通されるわけです。
そして、時代的には、国内中への移行でですね。そのときに紅茶用の品種が
もう一回採用するっていうことになりました。
紅ひかりね、べにふじとか、はつもみじとか作られるようになった、そういうふうな時代。
そして、その後半になってきますと、このような輸出がいきなりできなくなる。
紅茶もですね、世界の紅茶に負けてですね。日本の紅茶がどんどん衰退してしまいます。
高度経済成長期と日本茶の関係
その逆にですね、国内の景気が良くなって、ちょうど、再来年か来年、再来年か来年か。
東京オリンピック開かれるわけですが、その前。
高度経済成長期に入って、東名高速道路ができて、新幹線ができて、オリンピック。
そして、皆様方の給料が非常に高くなった。
庶民の方々でもお茶が飲める時代になった。
とともにですね、パンを食べたりコーヒー、洋食に日本が洋食文化を取り入れるようになってきたんですね。
昭和30年代~40年代前半です。
そうすると、お茶もですね。
やはり、洋食に対応できる、対応したティー、お米だけでない、みそ汁とお茶じゃない。
ということで、洋食に対して、香り豊かであっさりしたお茶、いうようなものを作ってください。
ふじみどり、やまかい、くらさわなど。
静岡はやはり研究者も多いのでそのような品種を作り始めるんですね。
そして日本人が高度成長期にお茶を飲み始めた、飲むことが可能になった時代がきます。
そうすると、ここで、需要の方が製茶機械がどんどん大型化してくる。
急須がここで一般市民にも普及してくる。
そうするとですね、やっぱりバラエティーに富んだお茶が必要となってきます。
店自体の大型化によって、やぶきただけだと、やっぱり摘採集中など、全部持っていかれない。
取っておくことができない。
大量生産できないということで、早生の品種あるいは奥手の品種が必要になってくる、早晩生の品種が昭和40年代くらいにつくられる。
そして、そういうふうな中でですね。早い方がやっぱり、GWの新茶シーズンに間に合うんですよ。そういう理由で早生品種がドンドン増えていった。
昭和後半〜早生品種と晩生種のバランスと品種改良の見直し
そのことによって、昭和50年~60年代、凍霜害などが引き起こされるようになってきてしまう。
そこで、逆に今度はもう一回見直しが働いて、凍霜害や大寒性に強い品種をやっぱり育成しなければならない。
さやまかおりが昭和46年。指定されているおくひかり、昭和52年のことなんです。
平成〜令和にかけての日本茶
そういうふうに育成された、いうふうな経緯があり、そして、最近平成時代からバブルが崩壊して、非常に個々が多様化してきた、いうふうなことがなってますね。
多様化してきた中に品種のバラエティーに富んだものが望まれ、香駿とか、つゆひかりが育成されてきた。
品種がですね、時代のバッグボーンとしながら、そんな体系で育成されてきているのが現状。
というのも、元々は多田元吉がインドから種を持ち帰ったというのが元になります。
偉人をリスペクトしつつ、現在の品種改良についても注目していっていただけたらと感じます。