日本茶アドバイザースクールで教わった
日本とお茶の歴史について記述していきます。
かなり長くてマニアックですので小分けにして解説していきたいと思います。
お茶は日本へどのように来たか?
お茶はそもそも日本へどうやって来たんだろうかっていう話です。
実はですね、例えば弥生の遺跡だとか、縄文の遺跡とか、お茶は一般的には古いかなと思っているんじゃないですか。
ところが、そういう遺跡から一切お茶のかけらも見つかんない。
生活の中で使っていなかったっていう時代もあったっていうのがある。
最近の研究でいくら探してもないんだよね。縄文や弥生の遺跡には。
新しい所ではあるんですね。
お茶の種やら何やらが。
だけどそういう遺跡自体にないにないってことは、その時代になかった。
そういう証拠ですね。他に「茶」以外に「チャ」っていう詳細文がないってことは、外来のもので「チャ」って「これが茶だ」って言ったら、それ以外に何もない。
だったらいろんな地方でいろんな名前が出るはずなんだけども、どうもそれもないようで。
だから外来じゃないかと。
「山茶」とかっていう、山のお茶とかっていうけども、この何百年のうちに入ってそれが増えていった。
繁殖率いいですからお茶は。
すごい強い植物なんです。
現状は渡来説が有力
遺伝的に調べて、そういうところではあったんですけども、雲南省とか、あの辺のものはルーツだなってのがだんだん分かってきたわけなんです。
渡来説が当たり前になってきた。
それって30年前はわからなかった話なんですね。
お茶の実とか、現在は挿し木で増やすんだけども、渡来するには実だろうなって。
実を持ってきて植えて、伝わっていったってことでしょう。
いろんなお茶が作られるようになった。
製造でいろんな、元はお茶も紅茶も烏龍茶も、適性はあるんだけども、全部同じ茶からできました。
いつ頃かっていうのは実際は分からない。
さっきの5000年前にあったっていうのも伝説だろうし、日本に入ってきたのはどのくらいかっていうのはないんだけども、何となくいろんなところの書物にのっている。
平安時代 日本後紀が日本茶の最初の記録
こっからなんだけども、日本茶の最初の記録。
まあ記録しか言いようがなくて、よくあるのが、記録があるんだけども、
その時代にそういうのがあったという記録というのはダメなんでね。
直接的にそこにあったというものでないと、歴史には刻まれないと思いますから。最初にあったのは『日本後紀』。これは「にほんこうき」って読むんですね。
「僧永忠(そえいちゅう)が嵯峨天皇(さがてんのう)にお茶を奉納した」っていうのが最初。
こういうのは記録として残りますよね。
天皇に何かしたなんてのは今も同じです。
日本に持ってきたのは誰か分からないけども、使ったっていう記録があります。
※諸説では
平安時代に天台宗の開祖・最澄が唐より茶の種子を持ち帰り、近江の地・坂本と朝宮に蒔いたとされる日本茶の起源までさかのぼります。
日本茶発祥当時から1200年以上の伝統を受け継ぐ茶産地として今日に至ります。滋賀琵琶湖情報より
https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/23383
偉い人じゃないと特には分からないんですよね。
庶民も使ったのかも分からないし、番茶ぐらいだったら飲んでいたんだろうなと、おこぼれをね。
いい部分、新芽部分は偉い人に献上して上手に作って、あとは番茶。
さっきみたいに炙ったやつだとか、やり始めたんだと思います。
分からない。
記録がないですね、庶民の話までは。
鎌倉時代 喫茶養生記の栄西はスパイ疑惑も?
中世に入って、日本茶文化の形成って「栄西」。よく「えいさい」って言ったり、最近では「ようさい」って言うんですけれども、この方が『喫茶養生記』、あの宋(そう)へと、留学に行ったんですね。
文化も運んでくるし、もしかしたらスパイだったかもしれないとか、いろんな事を言われて、群馬県の長楽寺で修行した人達が、結構中国へ派遣されています。
補足 長楽寺 wikiより
1221年(承久3年)世良田義季の開山、臨済宗の僧栄朝を開山として創建されたという。早い時期から官寺として扱われていた。室町時代初期(南北朝時代)には室町幕府から関東十刹のひとつに列せられた。
スパイ活動だったっていう話もあるし、あの辺に結構お茶の木があったり、
静岡の聖一国師っていう国師も、そこで修行して二度渡来してると言われています。
この方がお茶の種を持って帰ってきて、もちろん機械・道具やらを持って帰ってきて、お寺さんで飲み始めた。
権力者が献上したとかっていうのは『喫茶養生記』「きっさようじょうき」と読みます。栄西が書いたものですね。
最初に脊振山(せぶりやま)っていう、福岡県と佐賀県のちょうど県境。
補足:〒811-1113 福岡県福岡市早良区板屋
脊振山って1000m位の山なんですけど、そこに植えたって言われています。
「せぶりやま」と「せふりやま」どちらも言いますけど、我々は「せぶりやま」って言います。
この頃、抹茶は(宋時代に)流行したって言うから、向こうでもそうだし、偉い人は抹茶で飲んでいたんですよね。
お抹茶、粉末。葉っぱを乾かして、あと薬研で挽いたり、臼で。
臼は結構オートメーションでこうやって回すなんかして。
薬研でこうやって挽いたとかついたとかっていうのは最初の頃で、そういういいものを抹茶にして飲んだり、庶民はやっぱり番茶なんだよね。
番茶って何かって言うと、出るじゃないですか、摘むでしょ。
全く伸ばし放題にして二番茶採るわけじゃなくて、番茶って何かって言うと、摘んだらこの辺は新芽ですよね。
もったいないじゃないですか。
古葉なんだけど、こっから下は。
これを刈り取ってきてもう一回。
摘んだらしばらくして、遅れ芽って言って、まだ伸びるところあるんですね。
それを刈り取って蒸して揉んだもので、出来上がったものが番茶なんですね。
こういう「硬葉(こわば)」っていう硬い葉っぱ。
それが当たり前なんだ。
上の柔らかい方を偉い人が飲んで、下の硬いところは庶民が飲んで、こっちは圧倒的に量が多いです。
『栄西』『喫茶養生記』『脊振山』みたいなところは、覚えておいてくださいね。
源実朝に献上したみたいなね。
丸ごと覚えたほうがいいと思います。