日本茶の歴史の江戸時代後半編に行きます。
歴史難しいですがここまできたらもう少しです!
個人的には近代のお茶の歴史が一番好きです。
ペリー来航 日本茶貿易
ペリーが来航して、ペリーは勝海舟に会っています。
勝海舟ってアメリカにも行っていて、ペリー来航して、いろいろ貿易、(経済発展)、お茶をどうかとかそういう話になったんでね。
お茶と生糸は日本の特産物で、安いし良いものであります。
静岡県と牧之原開拓
静岡にも(徳川慶喜よしのぶ)さんと一緒に来てるんですよね。
勝海舟の進言で、(牧之原)に(富士)に茶園ができてきた。
江戸から無禄の武士といって、禄をはまない、3000人もの家族含めれば何千人もの人が来ちゃったわけですね。
補足:禄を食(は)む
給料を受けて生活する。仕官して俸禄をもらう。
つまりはまないということは給料がない無職の人たちが3000人きてしまったということ。恐ろし!
船に乗って駿府の町に。
駿府の町は富裕な町だったけど、さすがにそんだけの受け入れダメだってなって、勝海舟の進言で、アメリカで売れることも分かっていたから、牧之原の開拓を行った。
空撮でみてみるととんでもなく広い。
それから富士の開拓は清水の次郎長さんが音頭を取った。
補足:富士市大渕の開墾 http://komatsuen.com/shimizu_no_jirochou.html
明治七年(1874年)、55歳の時、当時の静岡県知事・大迫 貞清のすすめもあり、助成金を二千円もらい、向島の囚人たちを集め、富士裾野(大渕)の開墾をはじめます。この土地は水も出ないような荒れ地で、非常に厳しい開墾でしたが、明治十四年(1878年、次郎長62歳の時)山岡鉄舟が引きあわせ、次郎長の養子になった天田五郎がその采配を振るい、76町歩を開梱することに成功します。
補足:富士市大渕は地元なのでわかりますが、とても田舎です。
焼きそばで有名な富士宮のすぐ近くで昔はだだっ広い山だったため土地が安かったようです。
富士山と茶畑の写真を撮るのにぴったりなスポットの一つです。
日本平の斜面だとか。一躍あそこが、江戸の後期で言ったら全国で3番目だったんで、静岡ってね。
明治10年っていうのは、一躍1位になった。
補足:静岡は斜面に茶畑が多いので刈り取るときに大型機械が使えないところもあるようです。
対して鹿児島は平で広い茶畑になるので大型機械を数台使って一気に刈り取れる効率的なものになります。
その時の江戸の後期の時の一番が京都、それから三重、静岡、4番目がなんと、イメージつかないかもわかんないけど、仙台藩、伊達藩。
やっぱりお茶を、茶師がちゃんといてお茶を結構作っていた。
一番茶だけなんだけど。
寒いと採れないもんで。一番茶の6月の。
伊達藩が第4位だったっていうことは、それだけ少なかったんでしょうけど。
少なかったから4位だったのかもだけど。
だから金沢とか、あっちにも結構お茶はあったんです。
松前藩にもあったっていう。
補足:松前藩
松前藩は、渡島国津軽郡に居所を置いた藩である。藩主は江戸時代を通じて松前氏であった。
つまり青森です。
北限がやっぱりあの辺にありますので。生物的な北限だったら、あそこまで行きます。
(小樽の)。経済的には新潟の村上だとか、茨城県の猿島(さしま)とか、(奥久慈)とか。
開港後の日本茶
開港して、清水、横浜、海外というルートを引いた。
それまでは出島しかなかったです。
だから九州の産地って、古い産地が多かった。
そこからしか行かなかったわけです。
グラバーってありますよね。グラバー邸の。
あれ鉄砲商人でもあるし、お茶の商人でもあった。
鉄砲を日本に売りつけて、お茶を海外に輸出して。
そういう商人だったわけね。
補足:グラバー
「グラバー商会」を設立し、貿易業を営む。当初は生糸や茶の輸出を中心として扱ったが八月十八日の政変後の政治的混乱に着目して討幕派の藩、佐幕派の藩、幕府問わず、武器や弾薬を販売した。
1866年(慶応2年)には大規模な製茶工場を建設。
※ もうがっかり名所とは言わせない! 日本がっかり名所の一つがグラバー園のオランダ坂と言われています。
大浦慶っていう女性の、もう(たくさん)全国からお茶を集めて、本当に出島しかないから。
補足:大浦 慶は、江戸時代末期から明治にかけての女性商人。日本茶輸出貿易の先駆者。楠本イネ・道永栄と並ぶ長崎三女傑のひとり。
グラバーに売っていたみたいな。
急須で淹れるお茶、ペリー来航、日米通商航海条約。
輸出が盛んになって、生糸に次ぐ輸出品になったっていうことですね。
ここに見にくいけども、蘭字ラベルっていうんだけども、茶箱にこうペタッと貼るわけです。
初めはただ単に(ヒラヒラと)、だんだん芸術的に。
その方が外国行くと喜ばれるもんですから。
茶箱にこれを貼るんですね。「GARDEN GROWN」茶園で育った、「JAPAN TEA」日本のお茶、「FUJIYAMA TEA Co」「YOKOHAMA」などなど。
色染めしてないとかって、人工着色した技術もあって。
この蘭字ラベルっていうのは結構、いろんなきれいなものがあります。
徳川家康は静岡に来ましたね。
勝海舟とかいろんな人も来ております。
多田元吉のインド出張と丸子紅茶
その中に多田元吉さんてのがいて、千葉の出身の茶師さんなんです。
インド、スリランカへ派遣をして、この人に来てもらって、現地の種を持って来て。
この人が静岡の丸子っていうところ、紅茶の産地なんだけど今は。
そこでお茶を栽培、育てていったっていうのが日本のお茶の始まりであり、紅茶の始まりもスリランカのお茶。
だから丸子は紅茶の産地になった。
※補足:今でもインド旅はハプニングが多いので当時の環境下では死に物狂いで調査をしたものと推測されます。
多田元吉さん恐るべし!
補足:多田元吉 http://www.marikotea.com/domestictea.html
茶業振興を図る政府から、多田元吉翁は努力を認められて明治政府の役人に抜擢され、明治8年から10年にかけて中国、インドのダージリン、アッサムなど命がけがけで巡り、紅茶製造の技術を学び、日本に持ち帰り全国に広めました。茶の種、紅茶製造方法、病虫害に対する研究、栽培方法、品種改良、近代茶業につながった機械の図面持込み、有機農法の持込み、製造技術等多岐にわたる紅茶製造の技術を日本にもたらし、1881年(明治14年)に初めてインド式製法で本格的紅茶の生産が始まりました。
丸子って鞠子宿っていって、東海道五十三次の静岡の宿場ですよね。
ちょっと覚えておいた方がいいと思います。
大谷 嘉兵衛(オオタニ カへイ)さんが横浜で輸出に携わって、いろんな着色とか、だんだん(弱く)なると悪いことするんですよね。
補足:大谷 嘉兵衛 ウィキより
大谷 嘉兵衛は、明治、大正、昭和の実業家。製茶貿易業に携わり、「茶聖」と呼ばれた。第2代横浜商業会議所会頭。貴族院議員。
色染めしたり。(チェコ)、アメリカで売れなくなってしまった。
※補足:ご存知の方も多いと思いますが着色料を付けた食材は健康に悪いとされています。
明治の日本茶 やぶきたの開発
やぶきたと杉山彦三郎についての詳細
アメリカで売っていた最初の頃のお茶って本当にきれいな、今のようなお茶を売っていたんですけど、(だんだん悪くなっていった時代に)。それから杉山彦三郎さんて「やぶきた」さっきの国内9割。
やぶきたができる過程で、先ほど出てきた多田元吉に杉山彦三郎は研究指導を受けている。
その「やぶきた」が、もしかしたら母親は在来かも分かんないけど、父親がもしかしたら多田元吉持ってきた茶種だったんじゃないかなって言われています。
種がやぶきたとして受粉しないんですね。
お茶ってねまた習うと思うんですけども。
必ず増やす時には揷し木なんですね。
補足:現在のお茶は種から植えない。
だから、やぶきたが生まれた時に同じ畑に薮南が、薮の北側にあったんです。
要するに、薮の南にあるので薮南。小屋の西は小屋西っていう。
今でも残っている品種があってやぶきたの方が抜群だったもんですから。
美味しいお茶ですね。今でも父親は何かで、やぶきたの母親っていう種はすごく多いですね。
そういう系統が多いです。
例えば「まちこ」って呼ばれている桜葉の香りがするお茶なんかは、清水で結構作っているんですけども、母親はやぶきたで、父親が紅茶品種みたいです。
補足:まちこ
◇世界緑茶コンテスト最高金賞(2009)
◇しずおか食セレクション認定(2011)
◇日本茶AWARD審査員奨励賞(2014)「幸せのお茶 まちこ」の個性は、なんといっても香りです。
飲んだ後に鼻腔に広がる桜の香り。
この香りは、桜の葉に含まれている天然の香り成分と同じものです。
そっから生まれた品種は結構多いんです。
やぶきたが母親。育てやすいんですね。
やぶきたを母親にするとね。
「杉山彦三郎さん」覚えてください。
静岡の日本平行く途中の草薙神社の近くに、やぶきたの原樹があります。
補足:杉山彦三郎について
杉山彦三郎は、安政四(1857)年、安倍郡有度村(静岡市)に生まれました。
体の弱かった彦三郎は、家業は弟にまかせて農業をはじめました。製茶の研究にあたっては、勧農局の多田元吉、支那人胡秉樞らにつき、緑茶、紅茶の製造を学びました。また、明治10年頃、遠縁にあたる小笠の茶師、山田文助を自宅に招いて製茶伝習所を造りました。
文助は、自ら揉む見事な茶を「天下一」と称し、これを造るには上手な茶摘みに摘ませた軟い葉のみを選別しなければなりませんでした。彦三郎は文助を同伴して茶摘みをしましたが、文助の満足する生葉は茶園でなかなか見つかりません。良い芽を摘むために何日も茶園を歩いているうちに、彦三郎は、摘んだあとに硬化する葉もあれば、軟芽でいる葉もあり、茶樹には発芽時期、芽の具合や色合いに差異があることに気付いたのです。
明治中期 お茶の機械化と日本茶の世界文化共有へ
宇治製法が広がっていって、明治中期に高林謙三(たかばやしけんぞう)さんっていう方が製茶機を開発。
ここから機械化が始まりました。
手つみから、はさみ摘みにも変わる。
機械刈りですね。
補足 高林謙三「高林式製茶機械」の開発で知られる発明家、実業家、医師。
19世紀末期、産業革命によって動力の活用が盛んとなった頃、日本の主な輸出品目は生糸と緑茶でした。そのため、緑茶の生産に資産家が財を投じて参入し、大量に生産するために機械化が業界から望まれていました。この時代に、人生を賭けて開発に没頭した製茶機械開発の先駆者。
今はトラクターみたいで広がっていきました。
ユーカースの『ALL ABOUT TEA』っていうのは客観的に、アメリカ人なんですけども、日本を見てて。
これ結構分厚い本で、日本のことも結構何ページもある。
これが結構その時代のことを反映している。
『ALL ABOUT TEA』は覚えておくと良いでしょう。
補足:ALL ABOUT TEA
1935年にアメリカで出版された『All about Tea』はお茶の歴史研究には欠かせない必須の本です。
当時の初版が欲しいな別ですが、内容が読めればこれで十分です。
というか。ここまで安くなった事は非常にいいことです。
私は15年ほど前に45,000円ほど出して復刻版をアメリカから取り寄せましたが後悔していません。
友人は古書店に探させて初版を15万ほど出して手に入れました。
それがこの価格で買えるようになったのは素晴らしい事です。
ただ、お茶の歴史を研究しようとする人以外には役立たないと思います。
岡倉天心さんの書いた『茶の本』っていうのが結構有名ですね。
あとは現代のお茶に進化していきます。
補足:茶の本
日本の茶道を欧米に紹介する目的で、1906年(明治39年)、米国ボストン美術館で中国・日本美術部長を務めていた天心が、ニューヨークの出版社から刊行した。茶道を仏教(禅)、道教、華道との関わりから広く捉え、日本人の美意識や文化を解説している。天心没後の1929年(昭和4年)に邦訳された[1]。訳者は、天心の弟である岡倉由三郎の弟子である村岡博。
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