日本茶の歴史 江戸時代編について
江戸時代になって、お茶が一般庶民に飲まれるようになってくる。
商人が売るようになって、大名などが疲弊していくと飲めなくなって、そう言う時代に入ってきます。
農業全書とお茶壺道中
『農業全書』っていうのが、宮崎安貞(みやざきやすさだ)が書いてあるのに、お茶が商品として結構ちゃんと書いてあるんです。
補足:宮崎安貞(みやざきやすさだ)
http://www.tanbo-kubota.co.jp/water/hero/yasusada.html
江戸前期の農学者。福岡藩に仕えたが、後に自ら農業に従事した。諸国の篤農家を訪れて農業を研究し「農業全書」にまとめた。
全10巻と1巻の付録からなる「農業全書」は、第1巻は農業総論として耕作、種子、土地を見る法などについて書かれ、2巻以降は五穀、畑の野菜、山野の野菜、茶、家畜や薬草、施肥、除草や除虫など、農業についてのあらゆるものごとを詳しく記述しています。
それから「お茶壺道中」ってのがあって、これは1600年代に、静岡で始まったものなんですね。
補足 お茶壺道中
江戸時代、幕府が将軍御用の宇治茶を茶壺に入れて江戸まで運ぶ行事を茶壺道中、あるいは宇治茶壺道中といいました。
徳川家康公が静岡の駿府城におられて、お茶田を標高1000メートル、静岡市内から50キロ北、山梨県境みたいな所にお茶蔵を建てて、その周辺のお茶を全部そのお茶蔵で保管した。
標高1000メートルというと、6度ぐらい温度違う。
そこにお茶蔵建てて、その(三十何個)、下が尖っているんだよね。
地下に伸びて。温度が変わんないっていうのが。
それを秋まで保管して、秋になると駿府城まで50キロの道のりを運ばせた。
これがお茶壺道中の始まりって言われています。
今でも生産者がお茶を詰めて、大井川って一番上流に井川ってところがあるんだけども、そこに保管して、今再建をしてお茶壺のお社を作ったんです。
平成(15年)ごろかな。
そこから秋になると10月の末に駿府城、それから徳川家康公が眠っている久能山、東照宮まで茶壺を運ぶ。
そこでお茶壺道中が始まったんです。
ところが家康公が駿府で亡くなったんだけども、2代将軍あたりから、江戸でいたわけですよね。
(以前の)もちろんお茶があるわけで、そういうことは昔からやってたわけです。
保管して熟成させて、それを持ってくる。
江戸のところまでお茶壺を運ぶっていうのでお茶壺道中参加しているわけです。
ところが徳川家康公に遠慮するってことで、中山道を通って江戸まで運ぶ。
帰りは茶壺だけ運ぶ。
これがお茶壺道中。山梨県都留市ってところがあって、そこにお茶壺道中がありましたよっていうのが、ちゃんと記録に残っているんですね。
お茶壺道中っていうのは、偉そうにって思うんだけど、
大名行列とお茶壺道中が出会うと、必ずお茶壺優先なんですね。
外様大名は待っている。
だから「茶壺に追われてどっぴんしゃん」ってのは、茶壺が来たよって言うと、戸をピシャンと閉めて通るのを待ちましょうっていう話で、歌がありますよね。
「茶壺に追われてどっぴんしゃん」ってそういうことなんですね。
庶民とお茶の普及
庶民が飲んだのはいつ頃かっていうのは、江戸に、結構革命的にお茶が増えていった時代があるんですね。
各地でもいろんなお茶がこの頃には広まっていて。
さっきの番茶・刈番茶とか、足助ってところがあるでしょ、愛知県に。
足助の番茶っていうんですね。
「足の助」って書いて。足助の番茶は結構有名なんですよ。
この時期に硬葉を摘んできて、それを湯がいて、もう蒸しているどころじゃない。
湯がかないととてもじゃないけど酵素が失活できないというかね。こわすぎて(硬すぎて)。
それを蒸して日に干したものを足助の番茶って言うんだけども、そういうのは(全国)でやってたんですよね。
うまくそういうことを(行事)としてやっているところが残っているだけで。
さっき言ったように、庶民の間に記録自体残らないんだけども、ずいぶん広まっていったっていうのがあります。
各地でいろんな作り方をして、釜茹でだとか、蒸したりっていうのはありました。
シーボルトの本にもあるけど、釜炒り茶の記述があります。
補足:シーボルトとお茶 https://onoen.jp/column/column_101.html
長崎・出島のオランダ商館の医師として来日。
著作『NIPPON』では、「日本における茶樹の栽培と茶の調合」「一般に栽培されている茶樹についての記述」「日本の茶農園の土壌の化学的検査」といった項目が見られ、日本人絵師・川原慶賀らに依頼した図版も添えられています。 ガラスビンに入れた茶葉の実物や、茶の押し葉をオランダに送ることもしました。
「売茶翁」上から2番目、読み方「ばいさおう」って読むんだけど、高遊外って方が、お茶を屋台で担いで、町を練り歩いてお茶を売ってたってのがあります。
歩く喫茶店みたいな。
補足:売茶翁 wikiより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%B2%E8%8C%B6%E7%BF%81
61歳で、東山に通仙亭を開き、また自ら茶道具を担い、京の大通りに喫茶店のような簡素な席を設け、禅道と世俗の融解した話を客にしながら煎茶を出し、茶を喫しながら考え方の相違や人のあり方と世の中の心の汚さを卓越した問答で講じ、簡素で清貧な生活をするが為に次第に汚れていく自己をも捨て続ける行を生涯つづけようとしている。その内容を書き留めてゆくというものをしたらどうかと馴染み客でもあり相国寺で漢詩の得意な大典顯常にいわれて始めてみたが、あっさり売茶翁に飲み込まれ、大典が結局書き残すことになる。「仏弟子の世に居るや、その命の正邪は心に在り。事跡には在らず。そも、袈裟の仏徳を誇って、世人の喜捨を煩わせるのは、私の持する志とは異なっているのだ」と述べ、売茶の生活に入ったという。
70歳の時、10年に一度帰郷するという法度によって故国に戻り、自ら還俗を乞い、国人の許しを得る。そこで自ら高氏を称し、号を遊外とする。以後も、「売茶翁」と呼ばれながら、気が向かなければさっさとその日は店を閉じますというスタイルで、当然貧苦の中、喫茶する為の煎茶を売り続けていく。
永谷宗円(三之丞)は永谷園の先祖で急須の元祖
永谷三之丞って方が、京都、これ永谷園の先祖、永谷園の分家なんですね。
お茶漬けの。本家の9代目だったかな。
静岡県庁に勤めていて、大学の時に静岡で研修をして、農学部だったんだけど、そのまま静岡に居ついちゃったっていうような。
県の職員になって。
その先祖永谷三之丞さんが、1738年に(蒸し青製法)っていうのを作り始めたんです。
宇治の郊外で。永谷宗円は覚えておいた方がいいですね。
1738年も覚えておいた方がいいと思います。
補足:永谷宗円さんは試験に出ました。
ここから急須で淹れた今の(利用)のお茶が出来てくるんですね。
急須の語源
急須ってなんでしょうか?
「急須」って変な字でしょう。
こんな字ですよね。何だと思います?「急須」。
お燗するじゃないですか日本酒飲むときに。
お燗して火を焚いて、間接的にお酒を温めて。
これを「お燗」と言うよね。「火へん」に「間」。
直火でやると沸騰すると不味いじゃんね。
日本酒って。
これって何かって言うと、「須」って。須恵器って言って、素焼きの入れ物なんです。
補足:須恵器 http://www.ishikawa-maibun.or.jp/hiroba/sue/suekitoha.htm
青く硬く焼き締まった土器で、古墳時代の中頃(5世紀前半)に朝鮮半島から伝わった焼成技術をもって焼いた焼き物のことをいいます。
急いで、燗する、素焼きの(丼)なんですね。
煮炊きするとか、入れやすいように出口を、ピッチャーみたいなものなんですね。
急いで、燗する、素焼きの(丼)。
元々はいろんなものを火に炙って直接やっていたものなんです。
それをお茶を淹れる道具に変えちゃったんです。
どうもお茶が出てきちゃう、出口から。
当たり前ですよね。
普通に穴があるわけだから。だんだんお茶がよくなってくと同時に、この穴に網をかけたんですね。
だから古い陶器なんかは穴が荒いんじゃないんですか。
だんだん今は細かくしないと、お茶っ葉が全部出てきちゃう。
深蒸し煎茶とかね。粉っぽいお茶ってね。
広辞苑見れば出ています。
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