日本に紅茶ならびに緑茶が広めた二人の偉人がいます。
それは多田元吉さんと杉山彦三郎さんです。
個人的に最も好きな茶業偉人である多田元吉さんとお茶のテスト出題率95%を誇る杉山彦三郎さんの話。
多田元吉の功績
多田元吉は明治の8年に中国に行って、日本は紅茶をそれまでで作ったことがなかったわけですから、作り方を学ぼうとしていました。
そうすると、中国式の紅茶の作り方を学んできたんですが、それを日本で展開して輸出したらですね。
あんまり大したことないということで世界がなかなか認めてくれない。
それには色々と事情があり、中国から派遣した紅茶指導者が実は緑茶の専門家だったりと苦労されたようです。
ということで、今度は紅茶栽培、製造の主流であったインドに明治9年、そして、アッサム種等の種を仕入れてきます
そして日本に持ち込むんですね。
それと共に、紅茶を作る機械とか作り方を持ち込むんですね。
それを紅茶で、いうふうなことで基づきながらですね。
三重県に御浜町があります。
練習所 三重県にあるんですけど、明治の時代に作られた、この多田元吉のですね。紅茶を実証するために作られた。
練習所なんです。
このような時代があるんです。
杉山彦三郎と多田元吉の関係
そのあとの生まれた杉山彦三郎も多田元吉に師事します。
杉山彦三郎は特に取り上げられますが、実際は多田元吉の存在は大きかったと考えます。
彼がいなかったら杉山彦三郎は品種改良の技術を確立することができなかっただろうし、
やぶきたは無かったかもしれません。
そうしたら今の日本茶の歴史はもっと遅れていたかもしれません。
ちなみに茶業開化という本に、当時日本で一番茶業に詳しいものは多田元吉であったと記述されています。多田元吉が当時中国やインド行きを命じられたことからも茶業だけでなく、語学や機械技術にも精通していたことからトータル的にNO1だったということが分かります。
杉山彦三郎はいろんな品種を作って、「やぶきた」も作るんですけども、
彼自身もですね、実は様々な紅茶用の品種を作ってます。
紅茶用の品種から作られているんですが、現在これらはですね。残念ながら、全く普及してなくって、株として静岡県立大学の近くにですね。残されているというふうなものになっています。
だけど、杉山彦三郎はやぶきただけじゃない。
あるいは、紅茶用の品種、緑茶用の品種、様々な物を作っているということです。
アッサム種の栽培研究は枕崎で
そして、その後ですね。そんな日本にあるだけの品種だけではですね。
やはり、美味しい紅茶はできないということで、アッサム種という本格的にですね。
日本に導入しようとするんですが、ご存知のようにアッサム種というのは寒さに弱い品種なんですね。
冬、枯れちゃうんですね。寒さに非常に弱い。
ですので、枕崎というような霜のないむそう地帯っていう1年中、霜の降りない地帯。
そこに、植えて、ここから種を取って寒さに強い品種を育成しようというふうなこと。
このアッサム種というのは、なかなか育たないから静岡県の下田とかね。
夢霜地帯、霜の来ないような温かい地帯に植える。
そして日本の種類と掛け合わせる。
日本の品種は寒さに強いから、それをかけ合わせて日本の冬でも育てようと動き始める。
また同時に、中国の品種と中国系の品種。
中国系の品種、中国種であるこの品種とアッサムから持ってきた本格的な紅茶を作ろうとしてます。
この品種は種類が違いますので、作り方も変わるんですね。
中国種は紅茶に向かない
ここをぜひ覚えていただきたいんですけども、
中国式も、やぶきたもそうなんですけどね。なかなか発酵力が弱いため、発酵しにくいんです。
萎凋は非常に弱くて、そのためにですね。乾燥とか発酵とか、そこに長い時間をかけるしかないっていうことなんです。
ところが一方ですね、アッサム種はですね。
すぐにほったらかしてても発酵しますんで、温度さえあれば発酵しますんで、非常に香り豊かなものになり得る、いうふうなことになる。
そのために、機械化をしやすくなる。
それがあるがゆえにですね、アッサム種と交配しながら、発酵性の高いものを日本でも作っていかないと世界の紅茶に勝てない。というようなことになります。
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